外山滋比古





 (5) 象は鼻が長い 


 「ボクはウナギだ」
と云っても、人間がウナギだったりするはずがないから誤解はおこらない。しかし、文法から云えば、ボクは主語、ウナギは述語で、ボクがウナギであると云っていることになる。おかしいと思う人があってもおかしくないが、お互いはなれっこになっている。日本語がわかりかけの外国人がおもしろがって、はじめて気付くのである。


 「象は鼻が長い」という文が大正年間から専門家を悩ませていた。「象は」も主語、「鼻が」も主語。ひとつのセンテンスに二つも主語があってはならない。しかし、この表現は誤りではない。どう説明、合理化したらよいか、というのである。うまく解決する方法は見つからなかった。
 戦後になって三上章という人がおもしろい説を出した。「象は」は主語ではなくて主題である。「鼻が長い」は主語と述語だというので、これなら二重主語でなくなる。主題というのは、 についていえば のように範囲を示す、いわば副詞のようなものだと考える。副詞なら主語になれない。
 三上章はこの説を『象ハ鼻が長イ』(くろしお出版)という本にしたが、保守的な学会の承認するところとはならなかった。ところが思いがけないところに共鳴者があらわれた。旧ソ連の言語学者が三上説を大発見のようにもてはやした。ソ連から本の注文が来るが、題名が題名だから、輸入業者がてっきり童話の本と勘違いして、ゴタゴタしたというエピソードがある。
 「象ハ鼻が長イ」の伝でいけば、「ボクはウナギだ」の説明もつく。ボクは主語ではなく主題、つまり副詞である。ウナギだには主語がないが、主語を出さないでものを云うのは日本語の得意とするところで、すこしも珍しくない。
 「春が来る」の春がはまたすこし性格が違う。一般には、主語春がと述語来るの結合と思われているが、そうではないかもしれない。春がは主語ではなく来るの一部であると考えるのである。 春が来るという一つの動詞があると見るのは抵抗があるかもしれないが、例がないわけではない。
 主語のないセンテンスを原則として認めない英語でやっかいな問題は、主語を必要としない動詞の存在である。 雪が降るは
  It snows.
で主語があるが、もとはただ
  snows
だけで、 雪が降るの意味になった。一般にセンテンスは主語を必要とするルールが確立すると、それに合わせて、しかたがなく、仮の主語(It)を置いた。もちろんそれに 雪がの意味があるわけではないから、まったく形式上の主語である。
 こういう主語を要しない動詞のことを非人称動詞と呼び、現在もいくつか残っている。It rains.(雨が降る)It blows.(風が吹く)It is Sunday today.(今日は日曜日)など。
 日本語の「春が来る」も主語と述語と考えないで、英語の「雨が降る」「風が吹く」と同じように、主語が動詞の中に入ってしまっているとすると、おもしろい。とにかく、主語が微妙なのが日本語の特性である。主語のように見えても、実はそうでない云い方がすくなくない。「象は鼻が長い」もそういう考えからすれば、「長い」は英語の非人称動詞に近いものとすることも可能である。
 それにも関係するが、「は」と「が」の使い方が厄介である。日本語を勉強する外国人が「は」と「が」の違いについて延々と講義を受けるが、なかなか納得できない。当然のことで、日本人自身、はっきりしたことを知らないで一生を終る。
 選挙の街頭演説で紹介された候補者が
「わたしが○○です」
とやったところ、ことばにうるさい人が聴衆の中にいたらしく、
「いばるな!」
という声があがった。「(ご存知でしょうが)わたしが○○です」と威張っているようだというのであろう。
「わたくしは○○です」
ならいいが、やはりすこし落着かない。「わたくし」がじゃまで、ただ
「○○と申します」
「○○です」
とする方が、しっくりする。日本語では「わたくし」をできれば落とすのが作法である。
「ボクはウナギだ」
にしても、単に
「ウナギ(だ)」として 滅私の心をあらわすことが出来る。

 当代の碩学が、流麗、明快、含蓄に富む名文を駆使して説く日本語の奥深い魅力と飜訳作業の醍醐味......。

 日本語文章は本来、縦書きによるものとされてきました。
 外山先生の原稿も当然、縦書きであることは表示の生原稿に明らかです。しかし、Web画面の制約で表示は横書き。始めてこの画面を見られた先生は、少なからず違和感を覚えられたようですが、回を重ねるに従い、横書きにふさわしい文章を、と行文、用字などに苦心を重ねられてきました。
 この間の機微を、Web、生原稿双方を見比べてお読みとり下されば幸いです。
 次回10月25日、日本語の個性(6)をご期待ください。
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