連載コラム 日本語の個性     外山滋比古




   (1) 訳せぬ「であろう」?

日本人科学者の書く論文に、「であろう」で終るセンテンスがよく出てくる。これは英語には翻訳できない―
 かつて、京都大学で日本の物理学者の論文を英訳していたL.A.レゲットというイギリス人が、日本物理学会の学会誌に、「訳せぬ "であろう"」というエッセイを載せた。
 物理学者がびっくりしたばかりではなく、伝え聞いたほかの分野の研究者たちも、怖れをなして「であろう」を自粛するようになった。それを改善だと喜ぶ向きもあった。
 日本人が外国人の云うことに弱いのは、いまに始まったことではないが、おかしなことを云われても恐縮するのは、どうかと思われる。

 いくら日本語が出来ると云っても外国人。ことばのニュアンスがわからなくても責められない。だが、その尻馬に乗って得意がるというのはいただけない。
 「であろう」は、根拠のはっきりしない、自信のもてないことをのべる推量に用いられるのが一般であるけれども、それだけにはとどまらない。
 「A は Bである」ときめつけるのは、いかにも高飛車で威張っている感じになることがある。それを和らげるのが「であろう」で、心は「である」と変わるところがない。
 そういう「であろう」については国語の辞書も注意していないが、「であろう」は「である」と解すべきことがすくなくない。
「である」は論理的、「であろう」は心理的だが、意味の上では交換可能であるという語感をかつては自然科学者も共有していたのである。心理に弱い外国人が戸惑うのは多少同情してよいかもしれない。
 断定をはばかる気持ちは、日本人に限らない。モンテーニュも『エッセ』の中で云う。
 「私は本当らしい事柄でも、人から絶対に正しいものとして押しつけられると、それがいやになる。……性急な陳述をやわらげ中和するような言葉、すなわち "おそらく" "幾分" "だそうだ" のような言葉が好きだ」
 モンテーニュなら、「であろう」を訳すのに苦労することはなかったに違いない。
 日本文で「であろう」が好まれるわけが実はもうひとつある。
 日本語ではセンテンスのほとんどが動詞で終わるために、どうしても文末が単調平板になりやすい。うっかりしなくても、「である」「であった」の羅列になりかねないのが悩みである。同じことばが繰返されてはおもしろくないのはどこの国のことばでも同じ。英語でも、said(云った)を反覆しないために人知れぬ苦心をしている。
 論文なら「である」が立てつづけにあらわれることになるけれども、出来ればそれを避けたいと思うのは当然である。「であろう」とすれば、変化がつけられて、「である」のヴァリエーションになる。
 日本人の書く英語に I think が多い、日本人はみな哲学的なのだ、と皮肉った外国人がいる。これも、日本人の心理を知らない妄言だといってよい。この「われ考う」は、「であろう」に限りなく近い。本当には思ってもみないことを I think とやるのが日本式というわけで、断定をやわらげるための修辞にしかすぎない。
 「であろう」を英語に訳せない、というのは気の小さい翻訳者である。原文に忠実でなければならない、というのをあまりにも窮屈に、律儀に実践しようとしたのがいけない。原文が「であろう」であっても、訳ではときとして「である」とする。それくらいの解釈を加えられなくては、翻訳は存在し得ない。

 2006年8月から2007年12月にわたり、トランネットウェブサイトに掲載された外山滋比古氏によるコラム「日本語の個性」(全12回)の再掲載が決まりました!
 次回8月1日、日本語の個性(2)をご期待ください。
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