外山滋比古





 (4) △ と ▽ 


 日本人が外国語を話すのが下手なのは、聴き方が悪いからだという説がある。それはとにかく、センテンスの頭の部分をしっかり聴き取る耳ができていないために、相手の云っていることがわからない、というのは実際に珍しくない。
 日本人が外国語のはじめの部分をうまくとらえられないのは、日本語の特性にからむ構造的な問題である。
 日本語でははじめに大事なことがあまり出てこなくて、肝心なところは終りの方である。例えば

 「きのう、久しぶりにひまができたから、映画でも見て、あと古本屋をひやかし、デパートへ回って買ものもしようと思って出かけようとしていると、郷里から人がきてオジャンになってしまった」
というようなのがあるとする。途中のデパートの買もの、あたりまでは行ったのだろうと思っている。ところがひっくり返える。
 これはある研究会でのこと。スピーカーがいろいろな先行研究をくわしく紹介する。賛成なのだろうと思って聞いていると、終りへ来て「以上の諸説に私はいずれも反対であります」と締めくくった。反対ならもっと早くそう云ってほしい、と思う聴き手が多い。

 きわめつけは宮澤賢治の「雨ニモマケズ」

   雨ニモマケズ

   風ニモマケズ

   雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

で始まるこの有名な詩は、えんえん二十九行もこの調子で進み、ようやく最後の二行

   サウイフモノニ

   ワタシハナリタイ

で終る。それまではすべて前置きなのである。それが独特の効果をあげている。
 日本語の構造は、冒頭が軽く末尾が重い後方重心型である。富士山型、△型である。はじめのところを聞き落しても大したことはない。そういう耳の感覚がいつとはなしに身についてしまうというわけである。
 あいにくなことに、英語ではその正反対の前方重心型、逆ピラミッドの▽型になっている。日本語だと、話の途中になって「ならば」が出てきて面喰うことがあるが、英語は仮定文なら文頭に If としなくてはならない。
 英語の疑問文は、文頭に疑問詞(What,Who,……)があって、日本語のように終りへ来て急に疑問文になるというようなことはない。疑問詞の使えないときは、主語と動詞の位置を逆転させて疑問文であることを明示しなくてはならないのが英語だ。
 日本人のイエス、ノーがあいまいだというのは国際的に有名らしいが一部は誤解である。はっきりしないわけではなく、諾否の位置が異なるのである。英語では冒頭に示されるのに日本語はそうではない。英語がはじめに Yes としたら全体が肯定でなくてはならない。それに対して日本語は、はじめ「はい」であっても、だんだん「いいえ」に近くなることがある。
 ノーという否定のことばはことに強い。強いことばはなるべく先方に出すという暗黙の約束が英語にはある。

 He was not clever. これに I think をつけると、
 I think he was not clever.

ではなく、not が前へせり出して

 I don't think he was clever.

としなくてはいけない。I don't think だから「考えない」のかと考えてはいけない。
 センテンスのレヴェルをこえても△と▽の問題は存在する。落語は△型話しぶりの典型であるとしてよいだろう。はじめのマクラは軽く聴き手の気をひくためのもの。はなしの出来不出来、目玉は下げ、落ちで決まる。英語では、イントロダクションがきわめて大仰で、それだけ読めばよい、ということもある。日本語は結論を重視しない傾向がつよい。
 欧米の本の翻訳を日本語の感覚で、序論のところをしっかり頭に入れないまま先を読む読者がこれまでどれくらいあったか知れないが、りっぱに誤読である。わが国の西欧文化の摂取がそのためにどれくらい歪められてきたかわからない。
 もっとも、日本語にだって▽型表現がないわけではない。身近かなところでは新聞である。新聞記事は欧米式に作られていて、前の方ほど重要である。見出し読者があるわけだが、そういう新聞を何十年と読んでいるのに、日本語の△型はいまなお健在である。ことばの感覚というものは意外に、強固で保守的なもののようである。

 翻訳は原文にこめられた著者の語感と、訳者の育んだ日本語語感との「せめぎあい」であるとも言えましょう。本、外山先生のコラムを優れた日本語語感を掴む一助として活用し、翻訳のエッセンスを見出してください。
 次回9月16日、日本語の個性(5)をご期待ください。
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