外山滋比古





 (6) 敬語の妙 


 「外国にはない敬語などつかいたくありません」
 敬語の意識調査で、女子学生がこういうことを書いた。ほかにも似たようなのが多く、おそらく、国語の教師から吹きこまれたのであろう。外国と異なるところはなんでもこちらが悪いと考える例である。
 「尊敬もしていない人に対して敬語をつかうのはいやです」
というのもすくなくなかった。敬語は相手を尊敬しているときだけにつかうのではなく、ことばの様式である。こういう
ことを云う人は、手紙の宛名が気に食わないからといって呼びすてにする気なのか。いやでも様をつけるだろう。
 サラリーマンが
 「うちは大企業だのに、どうして小社などとするのか。バカにされるじゃないか」
などと真面目に云うらしい。笑止千万。自分の側のことは謙遜して控えめに云うのが日本語のたしなみで、謙譲語は敬語の大事な部分である。
 いくらりっぱな邸宅に住んでいても、わが家は拙宅、小宅などとならなくてはいけない。わが邸などと云う人はいくらなんでもいないだろうが、一般に謙譲の気持ちは薄れている。
 よその子は、ご令息、お嬢様だが、わが子は、たとえ秀才でも愚息と呼ぶのがたしなみで、手紙では豚児などと書くのも普通だったが、近年は、親の権威が下がったからではなく、敬語の心が乱れて、タブー視される。妻のことを愚妻と呼んで騒ぎになった家庭もある。家族のことはなるべく人前では口にしないようにしているという人もいる。
 戦争に負けて世の中の秩序、仕来りが大きく崩壊したが、敬語も甚大な被害を受けた。敬語は封建思想の象徴であるように考える人たちもいて、敬語を使わないのがデモクラシーだという風潮さえあった。
 家庭では敬語が姿を消し、学校も教えることをいやがった。敬語無知世代が育ったのは是非もない。ことばは伝統で生きているのだが、これで瀕死の打撃を受けた敬語の乱れの背景は深刻である。しかし、よくしたもので、自律的反動がおこることになった。さすがに敬語を大切にしようとは云えないで 美しい日本語をがスローガンになった。日本語は敬語ゆえに美しいのである。
 その走りが、 あげますの流行である。女性の若い世代から始まった。「子どもにオヤツをやる」は感じがよくない。「オヤツをあげます」がいいと云い出した。文法ではおかしいのだが、多数の力で押し通した。いまでは「イヌに餌をあげます」はむろんのこと、「花に水をあげます」となって やり水ということばをなくしてしまう勢いである。このごろは、「椅子を移す」と云わないで「移してあげます」というのが変でなくなった。
 こうなるとすこし脱線気味だが、敬語をとりもどそうとするいじらしい気持のあらわれと考えればいいかもしれない。
 もともと敬語は複雑で、つかいこなすのは容易ではなかった。戦後の空白期間で乱れたこともあって、だいぶスリムになった。それでも敬語がことばの年輪の一部であることには変わりがない。こどもには敬語がわからないし、歴史の浅い外来語には、 おをつけないきまりになっている。もっとも、つかいなれたことばには、 おビール、 おタバコなどがおかしくなくなっている。
 いまの日本人で敬語を完璧につかいこなせるのは例外的である。
 国会議員が、委員会の質疑で、
 「ただいま○○○議員が申されましたように…」
という云い方が広まったのは戦後になってからである。敬語の誤りだが、正す人もなくいつしか慣用になった。 申すというのは自分がものを云うときの謙譲語である。第三者なら、おっしゃいましたか のべられましたの尊敬語でなくてはいけない。
 敬語が厄介なのは、一筋ナワでいかず、尊敬語、謙譲語、丁寧語の三つに分れていることである。相手を高めるのが尊敬語、自分を低めるのが謙譲語で、ことばづかいを美しくするのが丁寧語である。
 女性はこの丁寧語をつかうのがたしなみとされたから、食べものなどに多く見られる。
  おむすびは、 おをとって むすびでは通りがわるいし、 おやつの おを落した やつでは意味をなさない。そんななかで、 おみおつけ(御御御付け)は丁寧の接頭辞を三つ重ねている。それほど 御が好きなのである。

 日本語の乱れに危機感を感じる昨今、正しい「ことば」とは何かを今こそ、あるいは今一度、外山滋比古氏のコラムから感じ取る意味は大きいのではないでしょうか。
 翻訳は原文にこめられた著者の語感と、訳者の育んだ日本語語感との「せめぎあい」であるとも言えましょう。本、外山先生のコラムを優れた日本語語感を掴む一助として活用し、翻訳のエッセンスを見出してください。
 次回10月15日、日本語の個性(7)をご期待ください。
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