外山滋比古





 (7) 言文不一致 


 外国人には日本語がつかえるようにはならない、と日本人は思い込んでいた。難しすぎるというのである。母国語に対するいわれなきコンプレックスだったと思い及ぶ人もほとんどなかった。
 戦後、アメリカ人をはじめ日本語の出来る 外人 がふえたことがどれほど日本人の自信をつけたか知れない。日本人顔負けの日本語をしゃべる、といっておどろいた。そういう日本語使いの外国人が、実は、文章はほとんど書けないのには目をつむった。あるいは気付
かない。もちろん、どうして書けないのか考えるものもなかった。
 戦後二十年くらいの頃から海外の日本語の学習者や研修者がふえ出した。それに応えようというので、国際ジャパノロジストの会議が京都で開かれたことがある。南米アルゼンチンから一人の研究者が参加したが、この人は独学、書物だけで日本語をマスターするという特異な経歴のもち主。日本語で書いた論文をもってきて発表することになっていた。
 会場でほかの人の発表を聞いておどろく。すべて「です、ます」体なのである。彼は、「である」体の原稿をつくってきて、そのまま読むつもりだった。日本語は言文一致ということになっているのだから、本に書いてある文章はそのまま口頭でも話せるものと思い込んでいたのである。彼はあわてて、原稿を書きかえなくてはならなくなかったというエピソードが一部の人たちの興味をひいた。言文一致というが、本当にそうなっていないのに、その人はひっかかったのである。
 もともと日本のことばは、書くのと話すのとは別々の発達をしてきた。文章は漢文の流れをひいた文語、話すことばは和語中心の口語である。言文二途とも云われる。それを不自然とは考えなかった。古くから漢文を学んだ人たちはもっぱら目のことばを学び、漢文を綴り、漢詩を作ることは出来たが、会話ということはまったく考えない。必要になったら筆談するしかない。それをおかしいとも思わなかったのだから、日本語で言と文が別々であるのは当然である。中国ではいまもひどい言文乖離だ。
 明治、開国してみると、西欧の言語が言文一致であるのにびっくりしなくてはならなかった。外国語では書くように話し、話すように書かれるというのは、明治の日本人の誤解で、文語と口語の差がないわけではない。ただ、日本語に比べてその差が小さい、というだけのことであるが、たどたどしい外国語ではそんなことのわかるわけがない。言文一致だと割り切った。日本もそれに倣わなくてはいけないというので明治二十年ごろから言文一致運動が始まる。ことばの伝統はきわめて根強いものだから、小手先の試みくらいでは変わるものではない。しかし、一般は、日本語は言文一致になったと信じるようになった。ことばの知識、関心が低いのである。その状態は百二十年たった今もほんの少ししか変わっていない。ことばはひどく保守的である。
 言文一致の先駆となったのは山田美妙、二葉亭四迷、尾崎紅葉などの文学者であるが、実際にしたのは、文末語を新しくしたにとどまったと云ってもよいだろう。山田美妙は「です」をはじめ、二葉亭四迷は「だ」、尾崎紅葉が「である」を導入した。
 これだけで言文一致とはオコガマしいが、実際はまずそんなものである。文語文法と口語文法はいまも併存している。つまり、日本語の言文一致はきわめて不完全なものだったのである。ただ、文語が消滅しようとしているのは注目すべきで、それが一見、言文の距離をなくしたように錯覚させるのかもしれない。実際は新しい言文二途が始まっている。
 新聞、雑誌は依然として「である」体が主流である。女性向けには「です、ます」体が好まれる。いくら高齢者でも「である」体の会話はしないだろうし、「です、ます」体でしゃべっている人も、文章では「である」体を用いることが少なくない。やはり、言文二途である。
 もっとも言文一致に近いのは手紙である。戦後、候文の書簡が廃れて、「です、ます」一本になった。それが書きにくいこともあって、手紙文化は衰えたと云ってよい。
 もうひとつおもしろいのは、言文混交体とも云うべき新しい書き方があらわれようとしていることである。「である」体と「です、ます」体のチャンポンである。はじめは、本の あとがき でときたま見られた。ずっと、「である」体で書いてきて、最後の関係者への謝辞のところで突如「お世話になりました。ありがたくお礼申し上げます」と結ぶ。嫌う人が多かったが、なくならない。
 それどころか、一般の文章で、「である」と「です、ます」の混淆がふえている。いまは行儀のよい書き方とは云われないが、定着すれば、言文一致と云ってよいだろう。
 そうなるまで当分は、日本語は言文不一致を続けることになるほかはない。

 日本語文章は本来、縦書きによるものとされてきました。
外山先生の原稿も当然、縦書きであることは表示の生原稿に明らかです。しかし、Web画面の制約で表示は横書き。始めてこの画面を見られた先生は、少なからず違和感を覚えられたようですが、回を重ねるに従い、横書きにふさわしい文章を、と行文、用字などに苦心を重ねられてきました。
 この間の機微を、Web、生原稿双方を見比べてお読みとり下されば幸いです。
 次回11月1日、日本語の個性(8)をご期待ください。
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