外山滋比古





 (8) 渾然一体
         ―言霊のさきはふ国―  


 特急列車に乗っていた外国人が同行の日本人に、いま通過した駅の名は何だったかと訊いた。漢字は見えたが、下の仮名書きは目に入らなかった日本人が、読めなかった、と云ったところ、「あなたのような教養のある人でも読めない地名があるのか」とびっくりされたという話がある。そんなことで教養を疑われた日本人は面食らったに違いない。
 固有名詞は読めない、読めなくて差支えないのが日本語である。地名などずいぶん無理な文字になっている。通過する駅の名前など気にしない。漢字の多くが当字だから、判じもののようなのが珍しくない。
 人の名も見れども読めずというのがゴロゴロしている。口で云っただけでは、はじめての相手には通じない。お医者の受付け窓口で名前を伝えるのに、昔は苦労したものである。ビジネスでは、名刺を交換してあいさつすることになっている。もらった名刺が読めなくても、「どうも、どうも、よろしく」。なんと読むのか、訊いたりしては失礼になる。
 ひところアメリカ帰りの人が、向うでは名刺なんか出すのは特別な場合だ、われわれもやめたほうがいい、などと云って、いくらか同調する向きもあったが、やがて消えた。名刺ほど便利なものはない。日本では。
 名刺をもらって安心していて、いざ電報を打つというときになって慌てる。かつて電報は片仮名しか扱わなかったから、読みのわからぬ相手に電報を打つのが難しい。新聞の死亡記事の喪主の名に送り仮名がついているのも弔電を打つためである。
 仮名といえば、昔、田舎のおやじさんが、息子の打ってきた電報を見て、「せっかく大学までやったのに、まだ、片仮名しか書けないのか」と嘆いたという笑い話がある。句読点もないから「ツマデキタカネオクレ」が、津まで来た金送れではなく、妻出来た金お呉れ、と誤読されたというのもよく知られていた。
 欧文などとは違い日本語は分ち書きをしないが、読めるのは漢字まじり仮名文のためである。英語で語間をつめたら、お化けのようになる。漢字がすくなく、仮名ばかりの文章はたいへん読みにくいのが日本語のかかえている問題のひとつである。
 ある母親が学級参観に行ったら、教室のうしろに、わが子の習字が張り出されている。「ははたいせつ」である。そんなに親思いなのかと喜んで帰った。うちでこどもをほめると、歯は大切のつもりだったと云われて、ガックリきたというのは実話である。
日本語の表記には
漢字
平仮名
片仮名
の三体が混用される。近ごろはアルファベットも参入してきて、はなはだにぎやかになっている。それを雑然としていると思っている人はすくない。
 もっとも権威?のあるのは漢字。官庁名など漢字の行列である。ただ新しく出来る市の名前に、仮名名がすこしずつ増えている。かつては仮名のすくなくなかった女子の名前が、このごろは漢字が圧倒的に多い。もっとも漢字を仮名として用いて、万梨子、映理子、麻衣子などとする。昭和仮名と云われる。万葉仮名に似ているというわけだ。
 戦前の小学校は片仮名から教えた。それが平仮名が先になって、片仮名はひところ影がうすかった。それをひっくり返したのがコンピュータだった。初期のコンピュータは漢字が書けなくて、地名人名お構いなくすべて片仮名で打ち出した。ずいぶん読みづらかったが、相手が最新技術だから我慢した。なれて見れば片仮名もかわいいではないかとなる。外来語ではじゃまにした片仮名に好感をいだくようになったらしい。
 それを裏付けるかのように、十数年前から片仮名の企業名が続出した。長年、売り込んできた漢字の社名を惜気もなくすてて、わけのわからない仮名にする大企業がいくつもある。片仮名には妙な匂いがなく、新しいイメージをつくり易いのが好まれるらしい。
 負けてはならじとアルファベット名がふえる。NTTがその走りで、JT、JRなどJ(ジャパン)のつく企業名が幅をきかす。NHKは日本語の頭文字だが、近年のものは英語の略字である。JRなどはなはだ耳触りだが、やはり馴れれば平気になるからよくしたものである。
 日本の言葉は複々々線で、いくつもの様式、スタイルが仲よく共存している。ほかの国ではこういう器用な真似はできないだろう。それだけに、つかいこなすには、たいへんな努力がいる。日本人はそのためにどれくらい損をしているかわからないが、字を書いていればボケなくてすむ。日本語の出来る外国人が珍しくなくなったが、出来るのは会話だけ。三体渾然の文字を綴ることはほとんどない。やはり、言霊(ことだま)のさきはふ国なのである。

 日本語の乱れに危機感を感じる昨今、正しい「ことば」とは何かを今こそ、あるいは今一度、外山滋比古氏のコラムから感じ取る意味は大きいのではないでしょうか。
 翻訳は原文にこめられた著者の語感と、訳者の育んだ日本語語感との「せめぎあい」であるとも言えましょう。本、外山先生のコラムを優れた日本語語感を掴む一助として活用し、翻訳のエッセンスを見出してください。

 次回11月16日、日本語の個性(9)をご期待ください。
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